私の卒業した小学校は、新潟県でも雪深い高田市(現在の上越市)の師範付属小学校といって1学年1クラス、それに当時としては珍しい男女共学で、担任の先生は1年から6年まで持ち上がりという学校でしたが、私はここで、最後の6年生の丸1年間、いじめられっ子としての人生を余儀なくされたのです。
昨年の神戸新聞のくらしの欄に、よくいじめられる子供の傾向として、「すぐ怒る」「いやがらせをする」「人をおちょくる」「みんなと遊ばない」「人の邪魔をする」「動作が鈍い」「学力不振」「不清潔」などの他にも、おとなしくて勉強の出来る子供やいじめられても反発しない子供も対象になり易いとありましたが、私の場合決定的だったことは、6年生始動日の級長選挙で、そのキャスティング・ヴォートを握っていた女子の票が引き金となって、私は何人かの男子生徒の格好ないじめの標的になってしまったのです。
爾来、来る日も来る日もいじめられ抜きました。始めのうちは見るに見かねて私を庇ってくれた友もありましたが、彼もまた彼等からいじめられて私から離れていってしまいました。
今から思うと、あの時期、殆どの男子生徒は、心のうちでは私に同情しながらも、見て見ぬふりをするか、或いは心に反しながらもちょっぴり彼等に加担するかの選択肢しかなかったのだと思います。
昼も夜も恐怖に苛まれました。昼は学校かその帰り道で、夜はうなされそうな夢に中で。
私はとうとう思い余って父に打ち明けました。
父はその翌朝、担任の先生に会いに学校へ出かけて行ったようでした。
でも所詮これは父や先生にも解決できる問題ではなかったようです。
子供のいじめは大人が考える以上にジメジメしていて、誰かに注意されるとそのやり方が陰湿になるだけだったからです。
もう第3者にはどうにもならないことを悟ると、私は子供なりに殻に閉じこもった貝のように、歯を食いしばってじっと耐え続け、彼等のいじめの疲れを待つ以外にはないと思いました。
でも、その学年の3学期、遂に私は軽いノイローゼになって、当時父の勤めていた病院に黄色の水薬をとりに何回か足を運んだことを思い出すことが出来ます。
それはおさない心の荒廃の一歩手前だったかも知れませんでした。
しかし、卒業が近づくにつれ、ようやく彼等の執念も褪せていったようで、中学入学後間もない雪解けの頃、私はいじめられっ子より開放されたのです。その頃の跳び上がって万歳をしたいような感動は現在でも鮮明に脳裏に刻まれています。
思えば、つらい悲しい級長の1年でした。
そしてこの1年こそ、私にとってまさに“The longest year”であったと言えます。
でも同時に、私がこの1年間に得たものも決して少なくありませんでした。
根性、辛抱強さ、弱者への思い遣りなど等、私のその後の人生にどれだけプラスになってくれましたか、高い高い代償を払って取得した宝物でしたから。
一方、嘗てのいじめっこ達は、今では高田周辺、東京、名古屋など四散していますが、彼等は関西に来ますと決まって神戸の私の家に立ち寄って夜を徹して痛飲して行きましたし、また2年に1度東京でクラス会を催していますが、遠かったり忙しかったりで中々参加が難しい私のところに、「何とかして出て来てくれないか。中野がいないと会が盛り上がらないから」としきりに電話が掛かって来たりして、今では名実ともに級長になったと心ひそかに思っています。
不思議なものです。この頃から、あれほど長い間私を悩ませていた頑固ないじめられっこ子の夢もふっつりと消えて行きました。
ところで、子供は純粋です。
それだから傷つきやすいのです。でも、子供は自分で立ち直れる無限の可能性を持っています。
ですから私は、親はこういう場合、全てを子供にとって代わってという支援より、子供の無限の可能性にちょっぴり手を貸して上げるだけでいいのではないかと思います。
子供は自分のマイナスを将来の素晴らしい宝石に変えながら、必ず自力で這い上がって来るに違いないからです。
(昭和59年)
時は、平成7年1月17日午前5時46分、何が何だか分からぬ時間が過ぎて行った。
その半ば夢、半ばうつつの中で、私は一瞬“死が来た”と思った。
と同時に、私は隣のベッドの妻を確かにこの両腕に抱きかかえていた。それから数日して漸く我が家族にも人心地が戻ってきた或る日の夕餉時、妻と子供を前にして、これまで夫として当然のことだと思って口に出さないでいたあの時の美談?を初めて披露に及んだ。
ところが鸚鵡返しに帰ってきた妻の返事に私は暫く言葉を失っていた。
「何言ってるの。お父さんはあの時ベッドにしがみついていたじゃないの」------ そう云えばあの時間帯でのパニックでは、夢と現実の交錯があっても不思議ではなく、あの瞬間の私の記憶は、妻が私よりひ弱か否かは別として、極限状態での妻を守らなくてはという夫の義務感が顔を覗かせた一面の錯覚であったのかも知れない。
また実際に精神科医の友人の話によると、被災者の地震後の記憶の中にはかなりの部分に錯覚があるということで些かほっとはしたが、私の場合、家族を前にして首長としてはかなり面目ない錯覚ではなかったろうか。
私にとって、あの地震が大きな“青天の霹靂”ならば、妻の返事はまさしく小さな”青天の霹靂“であった。
あの地震の3ヵ月後の深夜、震度4の地震があった。
暫く地震から遠ざかっていたせいか、意識下の恐怖が強烈に甦ってきた。
ここで私は漸く夫権を取り戻し、同時に帳尻を合わせることにも成功した。
私は腕の中にタシカに妻を受け止めていたからである。
(平成7年)
ふと思う。
中絶手術の真っ最中、サクションのモーター音に混じって患者の安らかな寝息が聞こえてくる。
ああ、今でなくて良かった。
またふと思う。行きつけの床屋でカミソリを当たってもらっている。
そろそろ眠気を催して来た。ああ今でなくて良かった。またふと思う。
二人の子供達はそれぞれ学校へ。
妻はデパートに買い物に、私は一人居間でお茶を飲みながらサッカーのテレビ観戦と、ごく普通の日常生活のパターンだ。
ああ今でなくて良かった。
またふと思う。
妻が台所で天ぷらを揚げている。
ジュジュジューという音と共に芳しい香りが居間の方まで漂ってくる。ああ今でなくて良かった。
----- 私はふとこの度の地震の時間帯について考える。
あの午前5時46分という時刻は、先ず殆どの家庭では家族揃って未だまどろみの床の中にいた時間帯でも、また暗闇からやがて明け行く時間帯でもあった。
言い方は些か不謹慎かも知れないが、あの地震がどうしても回避出来ないものだったとすれば、5時46分という時間は、それよりも早くても不可、すれよりも遅くては絶対に不可という、或る意味ではせめてもの救いと言えば救いの時間帯ではなかったかと言えよう。
例えば、これより1,2時間早かったら真っ暗闇のパニックが、もし1,2時間いや数時間遅かったら、関東大震災以上の阿鼻叫喚の地獄絵を見ていたに違いない。
だから私には、この度の地震がどうしても避けられぬ自然界の「運命」だったとするなら、ひょっとしたら、せめてその時間帯の配慮だけでもと、何か大きな力が働いたような、そんな気がしてならないのだ。
(平成7年)
巷間にはよく、陣痛は日もとっぷりと暮れて家族も寝静まり、街が漆黒の闇に沈む丑三つ時に起き易い言われている。
まあこれは、人間誰しも外が暗くなると何となく心細く不安になってくる。
予定日を間近に控えた妊婦ではまた一倍で、当然アドレナリン、ノルアドレナリの分泌が促進され、それによって子宮の収縮が起こり、それが閾値を超えると陣痛となってくるという図式も考えられなくはないが、だからと言ってうしみつ時に分娩が多いというには説得力としては些か弱いような気がする。
因みに、妊婦を四六時中真っ暗な部屋に待機させて分娩を誘発するという治験発表には私はまだお目にかかっていない。
先日の9月19日の台風20号の朝、当院では女児が誕生した。
昔から台風の日には分娩が多いということは私も聞いていた。
台風という異常な低気圧に子宮内圧が上昇、それが引き金になって前期破水と陣痛が誘発され分娩に至るという考え方で、これはうしみつ時論よりは遥かに信憑性がありそうである。
また先日の講演会後の懇親会の席でも、或る先生が以前に勤務していた病院では台風の夜は前期破水が多いというので、当直医は全員懐中電灯を枕元に置いて寝たものだというようなことを話しておられた。
一方で私は、きのこ類が台風が近づくと身の危険を事前に察知して慌てて傘を開いて胞子を地面に落とすという事実に着目して、私なりにこんな風に考えても見た。
それは、ひょっとしたらこうした自然界の種族保存の摂理が人間界にも働いているのではないか。
現代でこそ、我々は正確な気象情報や耐災害建築によって、台風に対する恐怖はさほどでもないが、恐らく昔の人は台風をかなりの致死災害と受け止めていて、その時代の妊婦には、台風時には一刻も早くこの世に我が子をという種族保存の摂理分娩が少なくなかったに違いない。
そしてその摂理分娩のプログラムが母親の脳に刷り込まれたまま現代に伝承されて、今でも台風警報が出るとそのプログラムにスイッチが入って分娩が誘発されるのではないかという考えである。
でもこれは穿ち過ぎでもいいところだと言われそうな気がする。
(まつたけ考)折から今はまつたけシーズン、市場の店頭にはようやく外国産に比べて薫り高い国産も見られるようになった。
ふと見ると“つぼみ”の方が多いことに気付く。
どうしてなんだろう?食用なんだからボリュームも多く、薫りもいい“開き”の方がいいと思えるのだが。
しかも人間は傘を開いて地上に胞子を撒き散らしたいという本能まで無視して、自分目先の都合だけで“つぼみ”を摘み取ってしまう。
えっ、これでいいんだろうか?私にはこの人為的少産が、国産物の年々の減少に無関係とはどうしても思えない。
一方、我が国の人間社会での少産少死現象は益々高齢化社会に拍車をかけて行っているが、その過程で何処か市場のまつたけに似たようなことが起こってはいないだろうか?でもこれより先のリンクは、ひょっとして我々の診療科に火の粉がかかることにもなり兼ねないので、この辺でクリックを遠慮させていただくことにする。
(平成9年)
今年は今のところ近年になく台風が少ないようですが、本来なら本格的な台風シーズンはこれからですのでまだまだ油断はならないと思います。
ところで、先生方は昨年の10月20日の夜から21日の早朝にかけて神戸では最大風速17,7mと吹き荒れた台風23号を憶えていらっしゃいますか。
これはその時に起こった話です。
あの夜私は早くから床に入りテレビの台風情報を観ながらいつの間にか眠ってしまっていたようです。
何時頃でしたか、寝入ってまだ間もない頃だったと思います。
私は突然天井の上の方からのバリバリという大きな音にびっくりして目が醒めました。
尤も私の家は高層マンションに囲まれていますので、普段からビル風が強く吹きますが、この夜の風はまた格別でした。私はこの音は一体何だろうと思いながらも睡魔に襲われ眠ろうとするのですが、うとうとするとバリバリ、うとうとするとまたバリバリで、朝の3時頃までは殆ど眠れませんでした。
風も明け方までには治まり、翌朝私はいつものように主夫仕事、いつものように診察、さてこれから昼食にかかろうという時でした。
家の近くの真福寺の奥さんが訪ねて来られたのは。
そして奥さんはこう切り出されたのです。
「実は今朝気が付いたのですが、うちの境内に先生のビルの屋上の看板が二つ折りになって飛んで来ているんです」と。
一瞬私は耳を疑いました。
真福寺といえば私のビルから直線距離にして数十米も離れている、しかもその看板はブリキ製で、長さ7m、幅1.5m、重量も20kgはあろうかという代物、いくら強風に煽られたといってよもやそこ迄は、まさかまさかの想いでした。
と同時に夜中のあのバリバリ音にも納得がいきました。
それにしてもよくぞまあ途中の家や道路に落ちなかったものだと内心ほっとしたのでした。
早速手土産持参でお宅を訪問、ひたすら平身低頭ご迷惑をお詫びした後、出入りの工務店の手を借りて見るも無残な看板をやっとの思いで家に運び終わって、先ずは一件落着というくだりでした。
でも私はその時つくづく思いました。
この真福寺というのは6年前の家内の葬儀を執り行った寺、そして私もまたそう遠くない将来お世話になるであろう縁りの寺、そのお寺を、図らずも私が診療所のビル改築以来26年間付き合ってくれたこの看板が自分の死に場所として選んでくれたとは、誠に、天晴れ! 天晴れ ! ----- と。
(平成17年)
世界人口白書2008年度版によると、世界の平均寿命は、男性64.2歳、女性68.6歳で、その中で日本人の平均寿命は、男性79.1歳、女性86.4歳でした。
日本では、女性は男性より7歳も長生きして人生を楽しめるとはまことに羨ましい限りです。
しかも、これまでの平均寿命の年次推移から見ても、嘗て一度だって男性は女性の寿命を超えたことはないのですから、寿命の女性優位は、殆ど自然界の摂理と言っても過言ではなさそうです。
これは、男女の資質と環境の違いにもよります。
まあ人間も一応哺乳類のうちですので、男性は生来一匹狼型、女性は生来集族型が適っているようです。
男性は交友関係にしてもあくまで会社関係、職域関係の域を出なく、退職後、引退後はその幅も狭められていくに対して、女性は、地域社会、子供の学校、習い事、スポーツジム関係等など決して友達に事欠くことはなく、年齢と共にその範囲は寧ろ拡大していきます。
週日の真昼間から、センター街や元町通りでは三々五々と連れ立っておしゃべりしながら闊歩している中年の女性を多く見かけますし、またしゃれた料理店の中はいつも女性客でいっぱいです。
また地域社会の催し物でも参加者の殆どが女性で、男性はほんの一掴みというのが現状です。
また女性は自分自身の為にお金をかけています。外見を飾る服や化粧品を始め、習い事や趣味とか資格取りといった“自分磨き”に積極的に金を使います。
だから女性は益々自分に自信を持ち強くなっていきます。
それも、男性は、定年後や妻に先立たれたりすると、生来人と連れ立って行動することが苦手なだけに男女の差は益々大きくなっていきます。
家事にしても、女性はお手の物ですが、男性には厄介な代物でしかなく寧ろ家事は大きなストレスにもなりかねないからです。因みに、最近では、妻に先立たれた夫の平均寿命は5年、その内7割が3年以内に後を追うと云われています。
他方、夫に先立たれた妻の平均寿命は何と20年ということです。
しかし最近では、男女の寿命の格差は、こうした資質と環境以前に、既にゲノムレベルで運命づけられているということが解ってきたのです。
(1)精子には、男性になるY染色体精子と女性になるX染色体精子の2種類がありますが、男性精子は酸性に弱く膣内では1日位しか生存出来ないのに比して女性精子は2日から3日位生存可能ですし(1回の射精につき男性精子数は女性精子の約2倍なので男女の出生児数に差が出ないと云われています)、また女性精子の比重は男性精子の比重より大きく、精子を遠心分離機にかけると、女性精子は中心部分に位置し男性精子は周辺に散るといわれます。
このように女性精子の生命力は男性精子のそれを上回っているようです。
(2)また最近の報告では、公害等の環境因子によって、年々精子の動きが悪くなり濃度も低下して来ているようで、人間の精子は85%に異常が見られ、正常な精子は僅か15%に過ぎないとも云われていますし、最近フィンランドではこの5年間に精子の濃度が27%も低下したという報告もあります。
(3)紀元前には、人のYもXも同じ大きさだったのが、年代と共に、Yの大きさは次第に縮小してきて、オーストラリアのジェニファー教授によると500万年後にはY染色体が消滅するとさえ云われています。
これは女性は、例えば片方のXに遺伝子の損傷があってももう一方のXで修復(クロスオーバー)出来るが、男性のYはXによって修復出来なくその部分だけ短くなっていくというのです。
(4)またこうしたXとYの大きさの違いは、例えば小説家が原稿を書く場合、広い部屋ではゆったりとした気分で筆も進みますが、狭い部屋では筆の走りも悪く書き損ないも多くなるように、男性の狭いYの部屋では”出来損ないの細胞“が多く産生されて来ます。その際、その人の免疫力が高いとその細胞を死滅させますので細胞数が減ってその結果老化が進み、また逆に免疫力が低いとその細胞はガン化して寿命が短くなるということになります。
(5)女性のXには人間の生命にとって重要な遺伝子が1000以上ありますが、男性のYには性を決定する遺伝子以外には殆どなく、Yの遺伝子数はX染色体の10分の1にも満たないと言われています。
このように、男女の寿命の格差は、既にゲノムレベルに始まり、それに資質と環境によってより増幅されてくるようで、以上の理由から、男性は未来永劫に女性の寿命を抜くことが出来ないと言えましょう。
私が数年前、兵庫区地域包括支援センターの依頼で兵庫区内のお年寄りに「高齢者の生き甲斐について」というお話をさせて戴いた折、数十人の参加者のうち、男性は僅か二人というショッキングな状況だったことから、私は係りのスタッフ連と諮って、家に閉じこもりがちな区内の独居男性老人を一人でも多く外に引っ張り出そうと、親寿会という会を立ち上げ、月に一度昼食を摂りながら四方山話しやら病気の話しやらをして現在に至っていますが、場内はいつも和気藹々で笑いも多く、会員も月一度のこの会を楽しみにしてくれているようで、おかげで徐々にですが、年毎にその人数も増えて来ていることが嬉しく、私もスタッフ連も大いに遣り甲斐を感じているところです。